「ゆいちゃんへ」

 一番下の息子が、歓声を上げながら、小さなプラスチックケースを手にやってきた。
 プラスチックケースの中には、アブラゼミの抜け殻が、大事にしまわれていた。
 どこにあったのかと聞くと、もう片方の手にあった古い小箱を差し出した。僕の部屋のたんすの中で見つけたのだという。

 宝箱だ。
 少年のころに集めた宝物。中には、まだ封も開けていない消しゴムや、戦隊ヒーローの雑誌の切り抜き、もう干からびてしまった笹の葉っぱなんかもあった。
 と、箱の中からボールペンが転がり出た。黒いキャップの、使い捨てボールペン。
 なんとなく手に取ってみると、キャップの側面に、掘り込み文字があるのを見つけた。
 「ゆいちゃんへ」

 ゆいちゃんへ。
 なんだか体中をあたたかい潮風が吹き抜けていくようだった。

 ある夏の日、隣に住んでいた女の子が引っ越していった。
 僕はこのボールペンを後ろ手に握り締めて、女の子を見送った。
 青い空に映える、ゆいちゃんの白いワンピースを思い出した。「じゃあね」という言葉も、海の潮風とともに鮮やかによみがえる。

 でも、何を思ってこの「ゆいちゃんへ」という文字を一生懸命に彫ったのか、それが思いだせない。
 なぜこのボールペンを、ゆいちゃんに渡せなかったのか、それもわからない。
 こんなに小さなスペースに文字を彫る、強い思いがあったはずなのに。

 胸に広がるのは、懐かしさだけ。

 えぐれたり飛び出たりしていた心の中が、時とともにしだいにしだいに平らにならされていく。
 少年のころの、ゆいちゃんへの強い思いも、今まで経験したさまざまな思いの中に、次第に埋もれていったのだ。
 ちょっと残念な気もするけれど。

 それが、「大人になった」ということなんだろう。

 僕はボールペンを丁寧に箱にしまって、セミの抜け殻に喜ぶ息子の後ろ姿を、いつまでも眺めていた。


END.