AI -4-

 胸の中を流れる寒々とした冷たい潮流。それを今、自分たちが同じところから、同じ高さで見つめているということはありえない。あるはずがないんだ。
 人にはそれぞれ立っている場所がある。そしておまえが俺の場所に立とうとしても、絶対に立つことはできない。なぜならそこにはすでに俺が立っているのだから。
 晶子しょうこは淋しいと言う。俺も淋しいのかもしれない。けれど、「淋しい」という途方もなく巨大な枠の中で、俺とおまえがどんな位置に立っているか、なんてことはだれにもわからないんだ。もしかしたらおまえは俺のすぐ後ろに立っているのかもしれないし、はるか遠くの方に立っているのかもしれない。そんなことは、俺にも、そして晶子にもわからない。
 そうだな。りゅうは地面を踏み締めながら思った。
 きっと俺とおまえのつながりは、今触れている背中の面積くらいのものだ。もうどこからが自分で、どこからが相手なのかもわからなくなってしまった、ぬかるんだ体温。しっかりとつながっているわけでもなく、だからといってただ触れているわけでもない。
 おまえが感じている「共有」なんてものは、実はこんなものなのかもしれない。ある種の曖昧さのなかに気持ち良く浸っていられる、甘えにも似た感覚。それは決して苦しみではない。
 ああ、そうだ。
 流は投げやりな気持ちで遠くを見た。
 淋しさを共有できるとしたら、それはもう、苦しみではない。そしてそれは、非現実的な幻想。
 そこまで考えて、流はひとつ笑った。今度は自嘲であった。
 まったく皮肉なものだ。幻想なんだ。わかっている。けれど俺は、俺が求めているのは。
 そんな幻想なんだよ、晶子。
 雪は断続的に降り続いていた。
 もはや流のまわりにあるものすべてが冷たかった。その冷たさに、胃がきりきりと痛んだ。歯を食いしぱってそれに耐えた。
 現実にありえないもの、手に入らないものを幻想と呼ぶならば、流が求めているのはまさしく幻想だった。
 流は求めてしまっているのだった。彼女が消えた、今もなお。
 (あんたが考えているのはただの幻想なのよ。現実的じゃない)
 昔、だれかにそう言われたのを思い出す。ひとりだけではない。流が関わったほとんどの人間から、同じようなことを言われた。
 なんでだろうな。流は心の中で、だれにともなく問い掛けた。
 俺はただ、朝奈あさなと一緒にいたかっただけなんだ。それだけなのに。
 耳元で風が鳴った。ひゅうひゅうと哀しげに、それは通り過ぎていった。
 そうだ。あの晩も、こんなふうに風が鳴いていた。
 (……寒いねえ……流)
 なつかしい声が聞こえる。さっきからずっと頭の中を支配していた声だ。
 無邪気な声。笑顔。
 あのときはちらちらと粉雪が舞っていた。遊び疲れた朝奈を背負って、とっぷりと日の暮れた人気のない街道を、なんとなく急ぎ足で歩いていたのを覚えている。
 朝奈は背中でしばらく眠っていたようだったが、やがて目を覚ますと、ぽつりぽつり、その日一日の思い出を楽しそうに語った。外に出るのさえ久しぶりだったためか、朝奈の声はひどく弾んでいた。
 (また遊びに来れるかな)
 彼女は少し名残惜しそうに、そんなことを口にした。
 (……ああ、いつかね)
 これは昔の自分の声だ。流は少し笑った。なんだかもうずいぶん昔のことに感じるが、思えばまだたかだか7年前だ。だが、その7年の期間が、流にとっては重く圧縮された時間のかたまりだった。
 記憶の中の朝奈は、肩ごしに流の横顔をのぞきこんだ。
 (いつかっていつだろう)
 (今日みたいにうまく屋敷を抜け出せた時じゃないか?)
 その答えに、朝奈は無邪気に笑った。葉月に見つからないようにしないとね、と笑いながら言い、その顔のまま、朝奈はひとつ、流に問い掛けた。
 (ねえ、私は死ぬんでしょう?)
 普通に呟かれた言葉。流は何も考えず普通に反応しそうになったが、その言葉の意味をとると、笑いかけた表情が固まった。なんとも形容しがたい思いが、どんよりと胸の中を覆っていった。
 朝奈は何も言わない流に、あどけない仕種で首をかしげ、それからひとこと、ぽつんとつぶやいた。
 (いつ、死ぬのかな)
 流はゆっくりと朝奈を振り返った。彼女は相変わらず普通の、何気ない顔だったが、流の顔を見ると、わずかに不安そうな表情をのぞかせた。それは死への不安などではなく、いつまでも返答が来ないことへの戸惑いだと見て取れた。
 答えなければと思った。だが、そこだけ重圧がかかっているかのように口が重かった。
 (……もうすぐ)
 流はなるべく普通の顔で、やっとそれだけを口にした。すると朝奈は少し残念そうにした。後ろを振り返り、夜の明かりがきらきらと輝いている町並みを目に収めながら、もう一度ぽつりと、ささやくようにつぶやいた。
 (また今度遊びに行く前に死んじゃったら……いやだな……)
 流は口を開きかけ、やめた。
 そうだな。本当にそうだ。と、そんなことを思ったような気がする。
 期限切れ。それは、彼女がまた外に出られる機会よりも、ずっと早くに巡ってくる未来なのかもしれない、とそう悟った。
 流はこの時、今まで漠然としか認識していなかった朝奈の死が、それだけ近づいていることを実感した。もう一度遊ぴに行くことさえできないかもしれない、そんな期間しか持ち得ない、絶望的なまでに確定してしまった未来。期間限定の命。
 しかし朝奈は無邪気な、まったく悲哀のにじまない声で、流にとって最も残酷なひとことを投げ掛けた。
 (ねえ、なんで私は死んじゃうんだろう)
 「……わからないよ……」
 思いがけず声が響いた。流ははっと目を見開いた。それは「現実」の自分の声だった。
 ああ、「こっち」が……。
 頭がぼんやりとしていた。夢から覚めた気分だった。
 流は立ち止まり、2、3度頭を振った。
 ふと気がついて、背負っている対象を確認してみる。背中ではいつのまにか晶子がすやすやと眠っていた。
 そうだよな……。
 なんとも言えぬ虚脱感が全身を襲う。自分が何を期待していたのか、流にはわかりすぎるほどわかっていた。
 やりきれなかった。
 だめだ。俺は求めている。
 まだなのか。いまだにおまえは俺を救ってはくれないのか。切り離してはくれないのか。
 (なんで私は死んじゃうんだろう)
 脳味噌の中の空洞で、朝奈の声がこだましていた。
 さあな、と流は口の中でつぶやいた。
 さあな。俺にはわからない。でもみんなは、全部おまえが悪いからだって言うんだ。
 おまえのせいで兄弟が死んだ、おまえのせいで子供が死んだ、おまえのせいで恋人が死んだ。おまえの、朝奈のせいでみんなが死ななければならない、と、そう言うんだよ。
 なんでだろうな。おまえはただ、生まれてきただけだっていうのに。それなのに、みんなが朝奈を否定する。おまえはここにいてはいけないと言う。
 流は腹に溜まったもやをすべて吐き出すかのような、大きな溜め息をついた。その息は白く色づいていた。


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