AI -3-

 「街に遊びに出かけて、その帰りだったかな。店を巡ってる時は元気にはしゃいでたくせに、帰り際になると、もう疲れたって言って一歩も動かなくなった。いくらなだめてもすかしても動いてくれない」
 りゅうはいったん言葉を切った。晶子しょうこの反応を待つためでもあったし、さっきからざわざわと騒がしい胸の内を落ち着けるためでもあった。
 「……朝奈あさなが?」
 晶子はそう言ってわずかに沈黙した。どうしたのかと流が後ろを振り向くと、彼女は声を出さずにくすくすと笑っていた。無垢な笑みだった。
 流はその笑顔に少し安心した。それと同時に、初めに感じたあの苦い感情が、胸の中でその領土を広げていくのを感じていた。
 そう、この少女は無邪気すぎる……。
 その無邪気さは、あるもうひとりの幻影をまざまざと流に見せつけた。いままで忘れていたあの時の彼女の姿を。もう忘れてしまってもいい、彼女の過去の姿を。流は奥歯を噛み締めた。すべてを振り切るように、言葉を絞った。笑顔を造った。胸の中の葛藤を、背中の子供に気づかれてはならなかった。
 「……だから、研究所まで俺がおぶっていってやったよ。あいつもわがままだったな。あのころは」
 「ふうん、そっか……」
 晶子はそう言ったきりまた無言になったが、しばらくして、ふっ、と息をついた。笑ったのか、それとも溜め息をついたのかは、流にはわからなかった。
 「そっか。ずっと一緒だったんだ……」
 流ははっとして目を見開いた。不意打ちだった。
 そうだよ、ずっと一緒だったんだ。何気なく、そう言ってやればよかった。けれど流にはそれができなかった。完全に虚を突かれた。安価なバリケードを破ってストレートに突き刺さった。
 ずっと一緒だったんだ。ずっと一緒にいたかったんだ……。
 喉が変な音を立てて引きつった。唇が震えた。晶子を抱えている腕も、晶子がつかまっている肩も震えていた。
 ずっと一緒にいたかったんだ……。
 流は求めてしまっていたのだった。おそらく、この幼い少女にもそれとわかるほどに。
 彼は言葉の一切を失った。言葉を発するタイミングをも失っていた。
 それでも流は必死になって次の言葉を繰り出そうとした。このままではあまりにも不様だった。けれど頭の中はすっかり真っ白になっていて、言葉の破片すらも思い浮かべることができなくなっていた。
 馬鹿だなあ。
 そんな意味のない感想だけが脳味噌の回路をぐるぐるとまわっていた。
 なんでここで詰まるんだよ。
 流は途方に暮れた。胸の中にぽっかりと穴が開いたような気分だった。あきらめという風が、その穴をくぐりぬけていくようだった。
 結局、彼女のことを「なんでもない」こととするのは、今の流にとってあまりにも無謀だったのだ。それでもなんでもないことのように振る舞いたかったのは、晶子に対する配慮と言うよりも、むしろ流の願望がそうだからであった。
 彼は求めているのだった。
 彼女が今、流の知っているどこかにいるならば、晶子との会話も単なる思い出話として普通に認識されただろう。彼女についての会話は、流にとって真実「なんでもない」ことでありえた。特別である必要はない。なぜなら彼女は存在しているのだから。
 けれど。
 流はいまや心の大半を支配した苦い感情を持て余しつつ、ぼんやりと首を仰向けた。雲の向こうの月がかすんで見えた。
 けれどもう、朝奈はどこにもいない……。
 いつのまにか足の動きが止まっていた。
 けだるい思いで足元を見た。アスファルトにうっすらと白いものが積もり始めていた。
 流はひとつかぶりを振った。
 帰らなければ。流は渾身の力で再び一歩を踏み出した。白い地面に足跡がくっきりとついた。
 帰らなければ。俺のいるべき場所へ。朝奈のいない世界へ。
 息が乱れた。短い呼吸を何度も繰り返した。詰まった思いを吐き出すように。
 やがて、流の背中で、今までじっとしていた晶子がわずかに身動きした。
 かさりと衣擦れの音が聞こえた。そしてその音に紛れ込ませるように、晶子は本当に小きな声でぽつりとつぶやいた。
 「――……」
 流は思わず晶子を振り返った。少女は少し目をうるませて眠そうにしていただけで、とくにこれといった表情らしいものは見せていなかった。流は複雑な思いで、その顔をまじまじと見つめた。
 空耳だろうか。
 さみしいね、と。
 そう聞こえた。
 淋しいのか。そう聞こうとして、やめた。晶子は流に同志を求めたのだ。さみしいね、と。
 淋しいのか、俺は。
 やり切れない思いが、胸の中をかけめぐった。淋しいのか……。
 正直なところ、流は自分が淋しいのかどうか、よくわからずにいた。それは裏を返せば、そんな単純なことにさえ気づかぬほど動揺していたということだ。「朝奈」というひとことは、それほどの威力を持っていた。
 淋しい、か。流は笑った。
 いやな言葉だ。そんないやな言葉で、この少女はどんどん俺の核心を突いてくる。本当にいやな子供だ。
 ああ、でも。流は長い長い息をついた。
 おまえも淋しいのか? 俺のように。おまえも「朝奈」というキーワードのもとで、俺と同じところにリンクしてしまったというのか。俺たちは淋しさを共有している、と、おまえはそう言いたいのか。
 流はもう一度かすかに笑った。
 幻想、だ。
 そんなものは幻想でしかないんだよ、晶子。


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