空の目 -4-

 二、三度理沙《りさ》の頭をなでた後、美枝《みえ》はすっと立ち上がった。離れてしまったぬくもりを追うように、理沙はすがる思いで彼女を見上げた。
「行こうか」
逆光で表情は見えなかったが、その声は優しかった。
「行く? どこに?」
「空の目」
「え、だって……」
戸惑う理沙をよそに、美枝はまた上を見上げた。
ふいに、あたりの景色が動いたように思えた。目を丸くして空を見上げると、空の目が……この大きな木の枝や葉っぱがどんどん近づいてくるのだ。下を見れば、あるはずの地面がみるみるうちに遠ざかっていく。
そう、理沙の見間違いでなければ、これは……
(あたし、飛んでる)
もちろん、人間が空を飛ぶ、ということはあるはずがない。ないのだが。
(だって、ほんとに飛んでるよ)
これが白昼夢というやつだろうか。妙に落ち着いた気分で理沙はそう思った。
奇妙な浮遊感に包まれながら、理沙はもう一度上を見た。木の枝はもう目の前に迫ってきていた。
(ぶつかっちゃう)
一枚の葉の、その葉脈が見えるまでに近づいてくると、理沙は反射的に目をつぶった。
予想していたような衝撃は訪れなかった。
理沙はそっと目を開けた。そして息をのむ。
(……青い)
そう、青、だ。視界が驚くほど青かった。そして、真上には、まぶしいばかりの光。
(太陽、だ)
「これが、空の目」
静かな声が、耳元で聞こえた。振り返ると、豊かなその木の樹冠に腰掛け、足を組んで理沙と同じ方向を見ている美枝がいた。そして理沙は、いまだふわふわと浮遊している自分に気がついた。体の上昇は、この大きな木のてっぺんの位置で止まっていた。
風が、ふわりとスカートをまくりあげる。
(空の目……)
理沙はもう一度その光を見上げた。
青い空の、大きな一つ目。
(太陽)
理沙は息を詰めた。
こんなに食い入るように見つめても、ちっとも目が痛くならないのだから、やっぱりこれは夢なのだろう。けれど太陽そのものをこんなにじっくり見たことは、今までにあっただろうか。
(この木の上には空の目があって)
(そこには道しるべの神様がいるんだよ)
空の目。空の目だ。
「この木は、あの空の目を見ながら大きくなったの」
美枝がそう言うのを、理沙はただ黙って聞いていた。
「空の目を目指して大きくなったのよ」
その声には、何かを愛しむ響きがあった。
「あの小さいのもね、この目を目指して大きくなる。いつか、あの偽物の空の目を突き破って、このただひとつの空の目を見るために大きくなるわ。自分のためにね」
「自分のため……?」
「そう。こんな大きな木の下で生まれたんだから、やっぱり大変よね。栄養も日光も少ないから。成長も遅いと思う。でも、やっぱり目指すものはひとつなのよ。あのたくさんの空の目に惑わされて、右往左往してるわけじゃない。自分のための空の目を探して、まっすぐに伸びていく」
それにね、と美枝は続けた。
「あの偽物の空の目だって、完全に成長を妨害してるわけじゃないでしょ? ほんのわずかだけど、光を与えてくれる。それを養分にして、いつかはあの目を追い越していくのよ。そういうしたたかさを、あの小さいのは持ってる」
彼女は微笑んだ。
「あなたもね」
理沙は目を見開いた。
「あ……」
こらえきれず、口元をおおった。胸につかえていたものがとめどもなく溢れだすのを感じた。
涙が流れた。
「だから、わからない、ってあきらめちゃだめ。よく見つめてみて。それをどこまでも追っていきなさい。自分を信じるの。そして、自分だけの空の目を見つけるのよ」
ひとつひとつの言葉が、何の抵抗もなく胸にしみこんでいく。人の言葉をこんなに素直に聞く自分がなんだか不思議だった。
「みんな、あなたしだいなんだから」
あの木のように生きていくか。どんなふうに生きていくかは。
理沙はうなずいた。そして目をつぶった。
たぶん、自分はたくさんの目に惑わされていた。その目が与えてくれる光にも気づかず、妨害者だと決めつけて、光も優しさも悪意といっしょに跳ね返していた。育っていくのをあきらめていた。その目だけを見るのに精一杯で、もっと先の大事なものを見落としていたのかもしれない。
(空の目を、あたしが見つけるんだ)
あの女の子の言葉も、男子生徒の告白も、突き刺さるような視線も。みんな養分に変えて、成長していくんだ。
(あの小さな木みたいに)
そういう人間になりたい。しっかりと根を張って、障害の向こう側に真実を見つけ出せるような、あの木のような人間に。
(あたしが)
頬に、暖かい手が触れるのを感じた。浮遊感が消え、不思議に思って目を開けたとき。
そこは空中ではなく、地面の上だった。理沙はいつのまにかひとりでこの大きな木の木陰にいたのだった。
あたりを見回しても、美枝の姿はどこにもなかった。
ただ、頬には、さっきの暖かい感触が残っていた。
また胸がいっぱいになりそうなのを、深呼吸でおさえる。
(道しるべの……)
(神様だ)
何も根拠はない。ただ、そう感じた。感じて、とても暖かな気分になった。
木陰から出て、空を見上げる。
雲ひとつ無い空、その中にひときわ強く輝く太陽。
いい天気だ。そう、理沙は今日、初めて思った。


END.


 

<前へ

 

Next Door

Home