空の目 -3-

 空は晴れていた。真夏の太陽がじりしりと肌をやきつける。
理沙《りさ》が美枝《みえ》に連れてこられたところは、やはりあの木の前だった。
幹の少し上のほうには、行き先を示す道しるべが打ち付けられている。『道しるべの神様』というのも、単に道しるべがあるから、という安易な理由で言われ始めたのかもしれない。
けれど、道端に立っているだけのただの街路樹なのに、この木はほかとは違う何かがある。人をひきつける何かが。
美枝は何も言わず、その木陰の中に入っていった。
なぜこの木に水なんかやっていたのか、と聞いてみたら、とても暑そうだから、という答えが返ってきた。どうやらこのあたりの木の管理人らしい。木に管理人がいるというのも変な話だが。
理沙は暑さから逃れるために、美枝のあとに続いた。
木の下は涼しかった。今のこの時期は、ひなたと日陰の温度差はかなり大きい。ほてった肌の熱がすうっとひいていくようで、気持ちがよかった。
「ほら、見て」
美枝がおもむろに口を開き、足元を指差した。見ると、ふくらはぎほどの丈の苗木が、大きな木に寄り添うようにして生えていた。
「へえ……気づかなかった」
理沙はしゃがみこむ。苗木ではあるが、立派に葉をつけていた。同じようにしゃがみこんだ美枝は、その先端をつんつんとつついて言った。
「この小さいのの空の目は、あれかな」
「あれ?」
理沙が首をかしげると、美枝は頭上を指差した。つられて見上げ、まぶしさに目をすがめる。
枝をおおきく広げた木の、その葉と葉のすきまから、光がこぼれるようにさしこんでいた。
「空の目? 木洩れ日?」
「そう。たくさんの目が見てるみたいでしょ」
たしかにそうだ、と理沙は思った。小さな、無数の木洩れ日が、理沙や美枝や、この小さな木を照らしている。それはまるで、空を埋めつくす光の目に見下ろされているようだった。風にふかれた葉がさやさやと揺れて、すきまを埋めたり開けたりするのは、その目が閉じたり開いたりするようなものだろうか。
「あの目に見られながら大きくなるんだよ」
美枝が言うのを何気なく聞いていた理沙は、ふと、今日の放課後のことを思い出した。
(理沙ちゃんさあ、慶貫受けるんだって?)
掃除の時間、同じ班の女の子にそう聞かれた。慶貫、とは理沙の第一進学希望校の名前だった。そしてその子がそう言った瞬間、教室じゅうの話し声がピタリとやんだ。その時はせいぜい7、8人いる程度だったが、みんな理沙の返事に耳を澄ませているのがわかった。
(うん)
理沙はしかたなくそう答えた。こういう雰囲気は嫌いだった。
(いいよねえ、理沙ちゃんあんな難しいところでも入れちゃうんだ、頭いいって得だよねえ)
にやにや笑っていた。少しムッとした。それは皮肉だった。お前は頭以外いいところは何も無い、と言われているようなものだった。そして彼女はそのままの顔で言った。
(あ、でも面接で落ちるかもしれないよね。あんた愛想ないし)
教室の何人かが、その言葉にくすくすと笑っていた。言った本人は勝ち誇ったように理沙を見て、続けた。
(あんたがあの制服着ても似合わないって)
(じゃあ自分が受けてみれば? 面接の前に落ちると思うけど)
気がつくとそう言っていた。次の瞬間、その子は持っていたバケツの水を理沙めがけて撒き散らした。沈黙が訪れた。今度は凍りつくような張り詰めた沈黙だった。
(……あんた、もうちょっと言葉遣いに気ぃつけたら? ほんとに落ちるよ?)
水浸しの理沙を見ている彼女の笑顔は、さっきよりかなりひきつっていた。理沙は何も言わず、そのまま教室を出た。悔しかった。背後で、掃除してけよコラ、と怒鳴る声が聞こえたが、理沙は立ち止まらなかった。周りの視線が突き刺さるように痛かった。ただ、水浸しで助かったのは、あの時泣いているのを気づかれなかったことだ。
(そういえば今日で二回目だな、水ぶっかけられるの)
そう思って少し笑った。おかしかった。が、そのおかしさは、次第に悲しさへと変わっていった。
美枝の場合はわざとではない。けれどあの女の子には悪意があった。
理沙はいつもひとりでいた。人と必要以上に関わるのを嫌っていたから、自分がどこか違う人間として敬遠されているのもわかっていた。けれどそれを、あんなふうに悪意としてぶつけられたのは初めてだった。あの教室の中には、理沙のことを好きだと言った男の子もいたが、彼はただ見ていただけだった。それが一番悔しくて、悲しかった。こんなものなんだ、と思った。
あの視線の中で、理沙は間違いなくひとりぼっちだった。
「どうしたの?」
美枝の声で我に返る。自分がかなりの時間沈黙していたのがわかった。理沙はただ首を横に振り、目の前の小さな木を見つめた。
この木は辛くはないのか。たくさんの視線にさらされて、萎縮しはしないのだろうか。今の自分のように。
「ほんとに大きくなれるのかな……」
つぶやいた理沙に、美枝は視線をなげかけた。しかし理沙はそれ以上何も言わず、ただ木を見つめ続けた。
この小さな木にとって、ここから生まれ出たことは不幸なことなのかもしれない。大きな木に養分を吸い取られ、空の目によって光をさえぎられ、それでも周りから大きく成長することを望まれるなら、それは不幸以外のなにものでもないではないか。
きっとこの木は大きくならずに枯れてしまうだろう。
理沙は悲しかった。
それは成長できない自分に対する悲しみでもあった。
言いようのないむなしさに襲われて、理沙は横にいる美枝の腕にひたいを押しつけた。 美枝はやはり、何も言わなかった。

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