空の目 -2-

 セーラー服がぱたぱたとはためいている。縁側からその様子を眺めていた理沙《りさ》に、その女はお茶を差し出した。
「あ、ありがとうございます」
素直に受け取って一口すする。
今、理沙は、自分に水をぶっかけた女――美枝《みえ》というらしい――の家におじゃましていた。彼女は20代前半くらいの若い女だった。あのとき、美枝は木に水をやっていたらしかったが、ずいぶん豪快な水やりもあったものだ。おかげで理沙は木ごと水を被ってしまったのだった。だいたい、人がいることに気が付かず、バケツで水をぶっかけること自体何かが違うのではないか、と、理沙はその時のことを思い出して、ひしひしとこみあげてくる怒りをもてあましては、なんとかなだめていた。
乾かしてあげるから、とすぐそばのこの女の家に連れてこられたはいいが、ろくな着替えもなく、真夏のこのくそ暑い日に分厚い毛布を巻き付けねばならないということで、理沙の機嫌は最高に悪いのだ。それなのにこの美枝という女は、出会った当初からお気楽そうな調子で、あら、ごめんなさーい、とさして罪悪感を感じていなさそうに振る舞うので、理沙の機嫌は悪くなる一方なのだった。
(もうちょっと申し訳なさそうにすればいいのに)
それともこの女にとってそんなことはどうでもいいのだろうか。
自分の思考が被害妄想に陥っているのに気づいて、理沙は湯呑みに残っているお茶を一気に飲み干した。舌を少しやけどした。そして思った、一体なにが気に食わないんだろう。
自分がこんなにイライラしているのは、美枝のおこないのせいではないと、わかってはいた。納得できない部分もあるが、あれはしょうがないことだった。いつまでもガキのようにだらだらと根に持つつもりはない。そんなことを気にしていたって何になるわけでもない。わかっているのだ。
要は人と一緒にいること、だった。
(別にいいけど)
理沙はからになった湯呑みを見つめた。
昔から、人と関わるのはあまり好きではなかった。どうせ自分のことをすべてわかる人なんているわけがないし、いてもなんだか嫌だ。それに、相手だって何を考えているのかわからない。
今、美枝は何かぼんやりしている。それを横目で見ながら、理沙は気付かれぬようにそっと溜め息をついた。
沈黙が、重苦しく感じる。外から入ってくる風も、なんだか疎ましい。
焦りと、苛立ち。一緒になって心をしめつける。
(……だから嫌なんだ)
人と一緒にいること。口を開けばうるさいし、閉ざされれば、寂しい。こうやって人に心をかきまわされるのが、理沙はとても嫌いだった。そして、そう思うことしかできない理沙がしたことといえば、人を突き放すことだけだった。
きっとこんなことを考えるのは自分だけで、そんなふうに気にし過ぎるのも自分だけなんだろう。美枝は気にも留めないに違いない、こんなバカらしいこと。とそこまで考えて、理沙はもう一度溜め息をついた。
(……被害妄想……)
こんなことではいけない。突き詰めて考えればみんな被害妄想になっしまう。
(なんだってあの子はこんな女なんか好きになったのかしら。こんなつまんない女)
ふと思い立って、それから理沙はみるみるうちに真っ赤になる。
(ああ、思い出してしまった……)
なんとか振り払おうとするが、その男子生徒の声が頭にこびりついて離れない。
……好きなんだ。
「もうっ、やだやだやだやだっ!」
「あ? どうかした?」
頭をぶんぶん振り回していた理沙は、美枝の声で我に返る。
「あ……はははは」
「大丈夫? 暑さのせいかしらねえ」
「へ? そんなに変だったですか?」
「いや、顔が赤いから」
「…………」
とっさにほっぺたを両手で覆ってみるが、あんまり意味のないことだと悟ってまた不機嫌になる。その姿勢のまま、理沙は美枝を見上げた。
「あの、美枝さんて、いい人なんですか?」
「は?」
「いえ、これには別に意味はないんです。ただ単に聞きたかっただけなので」
「はあ……」
「で、いい人なんですか? 悪い人なんですか?」
「……急にそんなこと言われたっねえ……」
美枝は困ったように笑っている。理沙もいきなりこんなことを言われたら自分でも困るだろうな、と半ば他人ごとのように思った。
「まあ、そう聞かれてはいいい人です、って答える人もあんまりいないんじゃないかなあ」
美枝は口を開いた。
「要は人がどう見るか、だし。人が見ていい人だと思ったらそうなんじゃないの?」
「そりゃそうでしょうけど」
「あなたは?」
そこで美枝は矛先をこちらに向けてきた。困ったのは理沙である。
「え?」
「だから、どう思ってるのかなあ、って。自分で自分のこと」
「うーん……ええと」
「別に深く考えなくていいのよ? ただ単に聞いてみたかっただけだから」
言って、彼女は含み笑いをする。そこにある種の期待が含まれているのを感じとって、理沙はますます困った。何に対する期待かは知らないが。
「……そんな、よくわかんない。そんなこと考えたことなかったし。でもほかのやつらから見ればやな女なんだろうな、って思うけど」
「そうなの?」
「だからよくわかんないって。あたしだって人のことどうこう思ったことあんまりないし、どう思っていいのかはっきり言ってわかんないし。だから他人があたしのことどう思ってるか、なんてわかるはずないじゃない。あたしのこと好きだって奴の気持ちなんかもう全然わからない」
「ふうん?」
「……あ、いや、だから……わかりません」
何か勢いにまかせて、言わなくていいようなことまで言ってしまったような気もするが、美枝はあえて何も聞かないでくれた。
いい人なのかもしれない。
ふいに、理沙はそう思った。
正体不明の女なんかとは口をききたくない、と思っていた理沙は、自分の気持ちの変化がよくわからなかった。わからなかったが、気分はさっきより良くなっていた。
「まあ、人それぞれだからね」
何に対してか美枝はそう言って立ち上がり、セーラー服とスカートをひっぱりあげた。
「うーん、少し湿ってるけど、まあ着れないこともないでしょ。ほら、これに着替えておいで」
そう言って制服を投げてよこす。広げてみると確かにまだ湿っぽかったが、太陽のにおいがなんだか暖かかった。
「早く着替えて。見せたいものがあるの。悩んでるみたいだし」
「え……なんですか?」
少し驚いて理沙が聞き返す。美枝はいたずらっぽく笑ってこう答えた。
「空の目、よ」

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